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大阪高等裁判所 平成4年(う)93号 判決 1995年12月07日

主文

原判決を破棄する。

本件を京都地方裁判所に差し戻す。

理由

一  本件控訴の趣意は、弁護人竹下義樹作成の控訴趣意書及び控訴趣意補充書記載のとおりであるから、これらを引用する。

二  控訴趣意中、不法に公訴を受理した旨の主張について

所論(弁論を含む。以下同じ。)は、原判決は、被告人に対する本件公訴の提起が有効であることを前提として有罪判決を言い渡したが、被告人は、先天性のろう者で、しかも、ろう教育をほとんど受けていないため、意思疎通能力が極めて低く、知能も五、六歳の幼児と同程度であり、訴訟能力を欠く者であるところ、<1>このような者に対する起訴状謄本の送達は無効であるから、本件公訴は刑訴法二七一条二項、三三九条一項一号によって決定で棄却されるべきであり、<2>被告人は、逮捕から始まる本件捜査手続の各段階において、実効のある通訳がなされず、逮捕時の被疑事実の告知、拘留質問及び取調べの際の黙秘権の告知、並びに供述調書作成時のいわゆる読み聞けをいずれも実質的に受けておらず、被疑者として憲法上ないし法律上保障されている諸権利を侵害されたのであって、このように重大な違法捜査に基づく公訴の提起は無効であるから、刑訴法三三八条四号によって判決で棄却されるべきであり、<3>刑訴法三一四条一項本文は、起訴後の公判手続中に訴訟能力を欠くに至った場合の規定であって、被告人のように起訴前から訴訟能力を欠いている者に対する公訴の提起は無効と解すべきであり、そうでないとしても、被告人のように、訴訟能力を回復する見込みがないか、極めて長期にわたり回復が期待できない場合には、公訴の提起は後発的に無効となると解すべきであるから、いずれにしても、同法三三八条四号を適用ないし準用して判決で公訴を棄却すべきであって、以上の各点で原審は不法に公訴を受理したものである、というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実調べの結果を併せて検討し、次のとおり判断する。

(一)  被告人の意思疎通能力及び精神的能力について

被告人は、重度の先天性聴覚障害者である上、学齢期に達した昭和一八年ろう学校に入学したものの、戦況の激化のため一年余りで学校が閉鎖され、以後は学校教育を受けておらず、聴覚障害者の施設に入ったこともなく、また、聴覚障害者仲間との接触の少ない生活をしてきたため、音声言語、文字言語はもちろん、体系的な手話や指文字(手指言語)も使用できず、意思疎通の手段としては、主として、独自性の強いわずかな手話と表情、身振り、動作に依存せざるを得ない状態にある。

また、被告人には、言語を習得しなかったことによる二次的精神遅滞が見られ、精神的諸能力のうち、非言語的な動作性知能の水準は、精神年齢九歳程度で、軽度の精神薄弱の範囲内にあるが、言語性の知能は、言語の習得に伴って形成されるべき一般的、抽象的概念と思考体系が欠けているため、測定不可能なほど低い。言語なき世界に生きる被告人にとっては、自分の直接かかわる現実世界、すなわち、目に見える具体的場面がすべてであって、物事をすべて具象的、動作的水準でとらえて直感的に理解しているにすぎず、一般的、抽象的概念で表現される内容や言語を媒介にした健聴者の思考体系による表現内容を理解することは不可能である。しかも、理解できないことを自覚することもできないため、意思疎通の障害は一層増大する。

このように、被告人の意思疎通能力は、手段の面で制約されているだけでなく、認識、思考の面においても、言語なき生活によって形成された概念や思考体系による表現と理解に限定されるから、その程度は極端に低く、あえてたとえるならば、三、四歳のレベルにあるということになる。

(二)  訴訟能力の有無について

刑訴法にいう訴訟能力とは、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力をいうものと考えられるが(最高裁判所第三小法廷平成七年二月二八日決定参照)、右の能力については、必ずしも被告人が単独で十分な防御をなし得る程度のものまでは求められず、弁護人、補佐人等法律上被告人を擁護すべき者の協力を得て防御をなし得る程度のもので足ると解する。

しかしながら、被告人は、単独で右のような防御をなし得る能力を有しないだけでなく、防御上弁護人等の協力を求めるにしても、その前提となる意思の疎通がほとんど不可能な状態にあるといわざるを得ない。すなわち、訴訟においては言語による交信能力と一般的、抽象的な認識、思考能力が決定的に重要であるが、被告人の場合、前述したように、意思交信の手段が極めて乏しいうえ、一般的、抽象的な認識、思考能力がほとんどなく、意思疎通の範囲は極めて限定された状態にある。そのため、「黙秘権」、「弁護人選任権」などといった言葉の意味を理解することができず、また、法廷における訴訟関係人の役割や訴訟手続の意味、各訴訟行為の内容、特に公訴事実に関する検察官の立証内容や訴訟の成り行き等の大筋を理解し、自分に有利な事実を弁護人に知らせ、これと防御に関して相談することなどは到底できないと考えられるのであって、このような被告人は訴訟能力を欠く状態にあると認めるのが相当である。

被告人が現在周囲の人々の援助のもとに一応自立して生活しており、ごく単純な日常生活に必要な能力を備えていると見られることは、右の判断に影響しない。

(三)  所論<1>について

前記認定のように、被告人は、訴訟能力を欠く者であるが、訴訟能力は、当事者能力とは異なり、訴訟条件ではないから、訴訟能力を欠く者に対する公訴の提起も有効と解すべきであり、刑訴法二八条、三一四条一項の規定もそのような公訴の提起が有効なことを前提としているものと考えられるところ、訴訟能力を欠く者に対する起訴状謄本の送達を無効とすると、長期間訴訟能力を欠く状態が続く者に対しては、訴訟能力を訴訟条件とするに等しい結果になること、訴訟能力を欠く被告人の保護は、同法三一四条一項の公判手続の停止によって可能であることなどの点を考慮すると、起訴状謄本の送達は、それが適式に行われる限り、受送達者である被告人が訴訟能力を欠く場合でも、その効力を認めるのが相当である。

(四)  所論<2>について

本件捜査の過程において、被告人が軽犯罪法違反により現行犯人として逮捕された際、通訳人の手当てが間に合わず外形的にも被疑事実を告知することができなかったこと、被告人に黙秘権等刑事手続上の諸権利を理解する能力がないこと、被告人の供述調書を作成する際のいわゆる読み聞けにおいて、その内容を十分被告人に伝えることができなかったこと等は弁護人主張のとおりであるが、捜査官は、本件捜査の過程において、被告人との意思の疎通を図るため、できる限りの努力をし、捜査手続が適正に行われるよう配慮していることが認められるのであって、前記のような捜査手続上の瑕疵が、証拠の証拠能力等に影響を及ぼすことは考えられるとしても、公訴提起の効力に影響を及ぼすとは考えられず、その他本件捜査の各過程を検討しても、公訴提起の効力に影響を及ぼすような違法があったとは認められない。

(五)  所論<3>について

訴訟能力を欠く者に対する公訴の提起も有効と解すべきことは前述のとおりであって、刑訴法三一四条一項本文を起訴後の公判手続中に訴訟能力を欠くに至った場合に限定して解するのは、正当とはいえない。また、被告人が今後言語的意思伝達手段を身に付け、言語的思考力を発達させて訴訟能力を回復する見込みについては、すでに言語学習の適齢期を逸して独自の認知構造を形成していることや、その年齢、生活実態等からみて、厳しいことが予想されるが、全く期待できないとか、極めて長期にわたり期待できないと現時点で断定することも相当でなく、事柄の性質上、なお慎重に経過を観察する必要があるものと考える。

三  以上のとおり、前記の各所論はいずれも理由がないが、被告人は、原審当時も現在同様訴訟能力を欠く状態にあったものと認められるので、原審においては刑訴法三一四条一項本文により公判手続を停止すべきであったといわなければならない(同条同項ただし書の場合には該当しないものと認められる。)。

してみると、公判手続を停止することなく有罪判決を言い渡した原審の訴訟手続には、同法三一四条一項の適用を誤った違法があり、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

よって、控訴趣意中のその余の主張について判断するまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である京都地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 青木暢茂 裁判官 梶田英雄 裁判官 東尾龍一)

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